職業プログラマの休日出勤

職業プログラマによる日曜自宅プログラミングや思考実験の成果たち。リアル休日出勤が発生すると更新が滞りがちになる。記事の内容は個人の意見であり、所属している(いた)組織の意見ではない。

「ユニコード戦記」を読んだ

仕事もプライベートもUnicode無しには考えられないという時代になって久しいですが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
私は元気ですが、文字のことが頭から離れる日はありません。

さて、3月に東京に遊びに行ったとき、渋谷のとある書店に立ち寄ったのですが、その時に偶然「ユニコード戦記」を見かけたので、衝動買いしました。

ユニコード戦記 ─文字符号の国際標準化バトル

ユニコード戦記 ─文字符号の国際標準化バトル

「これって確か数年前に流行ってた本だよなー」という認識でした。周囲の何人かの技術者に聞いても同じようなコメントが帰ってきたので、きっとそうなのでしょう。2011年の発行です。

内容は、Unicodeの規格の制定に関わる物語です。
規格を感覚的にでもある程度知っていると「あー、この部分、そういう歴史的経緯だったのか!!!!」という発見の連続で、本当にためになります。異体字とか、特にそうですね。国際会議でどのように信頼を勝ち取っていき、意見を通していくのかということについても、ためになります。
もちろん、規格をあまり知らなくても、単純に物語として楽しめると思います。
ミスると一つもしくは複数の言語文化を殺してしまうことにつながる、というプレッシャーは凄いものがあったことでしょう。


最近では、MySQLの「寿司ビール問題」「🍣=🍺問題」を通して、collation(照合順序)の実装はどうあるべきなのか?という議論が様々な場所で繰り広げられています。その議論に参加している皆さんが抱える苦悩は、まさにUnicodeの規格制定に携わってきた皆さんが体験してこられたことと根本的には同じことでしょう。(もちろん、実装面はいろいろと異なるため、その苦労はもう一度誰かが体験することになるのでしょうけれども。)


この本、現在ではあまり数は出回っていないようではありますが、皆さんもぜひ読んでみてはいかがでしょうか。


3月に買った本を今になって「読んだ」と申している点については、どうかご容赦を。

「暗号解読」を読んだ

昨年、オススメの本を紹介しあう会(ビブリオバトル)が会社で開催されたのだが、その会に同僚氏が持ち込んだ「暗号解読」という本がとても興味深かったので、買って読んだ。

暗号解読〈上〉 (新潮文庫)

暗号解読〈上〉 (新潮文庫)

暗号解読 下巻 (新潮文庫 シ 37-3)

暗号解読 下巻 (新潮文庫 シ 37-3)

手元の本は平成25年に15刷と書いてあるので、かなりのロングセラーなのだろう。恥ずかしながら自分は同僚氏に紹介されるまで知らなかった。

暗号解読。
身近なところでは、シェル芸人の皆さんによる暗号解読騒ぎなどが記憶に新しい。
【こわい】唐突に暗号解読を始めるシェル芸人達 - Togetterまとめ

日頃、SSL/TLS を喋るサーバを構築したり管理したり、アプリケーションが取り扱うデータの安全性をどのように確保するのか?といったことに頭を使ったりなど、暗号のことを考えない日は無いと言っていいほどだ。
簡単な暗号なら有限量の努力で解読できる。そういう自信もあった。
しかし、実際に自分の手を動かして、あるいは自分で解読用のプログラムを書いて暗号解読を試みたことはあるかと言われると、ほとんど無い。

この「暗号解読」は少々古い(2000年前後に書かれた本だ)が、古典的な暗号や第二次世界大戦、そしてRSAや量子暗号に至るまで、時代をたどりながら取り上げて行く。簡単なものについては解読するための手法も実践的なものが紹介されている。
また、ただ単に技術的な解説にとどまらず、その暗号の発明や解読に至る人間の動きも紹介されていて没入感が高い。
読むにあたって、全部理解しようとするとなかなか難しいものはあるかもしれないが、話を追う分には、前提知識は特に要らないだろう。きっと。
皆さんも読んでみては。

追記@2017/03/19 01:10頃

そういえば、ちょっと前に「セキュリティフォント」という いかがわしい 製品が話題になっていた。
security.srad.jp
この「セキュリティフォント」の仕組みは、単純な換字式暗号。「暗号解読」の上巻の、かなり最初の方で解読法が解説されてしまう代物だ。
「セキュリティフォント」には情報を守る効果がほとんど無い(ただしゼロではない)ということはすぐにわかることではあるが、この本を読んでいれば、単純な換字がどれだけ危険であるか身を以て知ることができるだろう。

忙しさから遠ざかれ

数ヶ月前、近所のスーパーが閉店した。
閉店の2ヶ月前くらいから、忙しくてそのスーパーには買い物に行けてなかった。忙しさから解放されて「さぁ買い物に行こう」と思ってスーパーに行ってみたら真っ暗、だった。
「あぁ、俺が買い物をしなかったせいで経営不振に…」という気持ちはあって、すごい無力感に襲われた。(実際には、住民の一人が買い物できなかった程度ではスーパーは潰れないだろう。)

話は変わっておおよそ10年前のこと。外的要因によって精神を病んでしまった友人が居て、MSN MessengerMicrosoftさんが運営していたチャット)で話を聞いたりアドバイスしたりしてたんだけども、自分の仕事が忙しくなってなかなか返事を返せなくなって、しばらくしたら死亡していた、ということがあった。自分が返事を返すことができていたら助かっていたかもしれないという思いはあって、やはり無念だった。

人の死とスーパーの閉店とを同列に並べるのは変な話ではあるが、「自分の忙しさのせいで助かったはずのものが助からなかった」という思いを抱いたという点ではこの2つの出来事は全く同じだ。



…という話や思考があったことを、ここ最近の忙しさを振り返っていて思い出した。
断言しよう。忙しくしていることは「悪」である。自分の生活の中から、重要度の低いものはどんどん削ぎ落としていくべきだ。


自分自身の忙しさを測る(≒数値化する)手法は、睡眠時間の統計を取るというのが最も一般的だろうけれども、もしかしたら、自分で気付かないうちに家事を放棄して睡眠時間を確保しているかもしれない。
そうなったときでも、自分の忙しさを測るにはどのようにしていれば良いのだろうか?
例えば「近所のスーパーの特売情報を10秒以内に思い起こすことができなかったらアウト」といった基準は持っていても良いのかもしれない。

今日の教訓

近所のスーパーの閉店に気付かないのは相当ヤバイ。

第27回 #シェル芸 勉強会 参加記録

2週間も前の話ですが、シェル芸勉強会の大阪サテライトに参加してきました。
この記事は、その思い出話です。

リンク集
続きを読む