「映画を見る」という行為に対して、僕はとても高い敷居を感じています。
その理由として、次のようなものが挙げられます。
- 時間が無い or お金が無い
- (映画館の場合)行列に並ぶのが嫌・人混みが嫌い
- (映画館の場合)映画館でどのように振る舞えば良いのか、よくわからない
これらに加えて、ここ数年特に重いなーと感じるのが、次の1点。
- 暗黙的に求められる前提知識が多い
前提知識とは
公式な宣伝やマスコミ経由では「○○が主演」とか「あの△△で有名な○○監督の作品!」といった情報が流され、知り合い達からは「○○(役の名前じゃなくて役者の名前)格好良い」「○○(同)カワイイ」といった声ばかりが聞こえてきます。作品そのものの素晴らしさよりも、そこに携わっている人達そのものの評価や前評判の方が強調されて伝わってくる訳です。そこで抱く感覚は「役者や監督について前提知識が無いと映画というものは楽しめないのだ」というものです。これは日本に居ても豪州に居ても、あまり変わりはありません。
もちろん、映画を1個も見た事が無い訳ではありませんので、前提知識無しで見ても面白い映画が存在することは知っています。携わっている監督や役者やスタッフ達が素晴らしいということも、恐らく真だろうと十分に期待することができます。
理屈で考えれば「僕は映画を見た方が良い」という結論に至ります。
でも、この理屈は、自分自身の前提知識の無さから生じる負の感情にはあっさりと敗れ去ってしまいます。特に映画館からは足が遠ざかる一方です。
宣伝する側の立場で
僕は「好きな音楽は?」と問われると、その回答の一つとして、ほぼ毎回Duke Ellington楽団のものを挙げています。この楽団の音楽の素晴らしさは何通りにも表現できるかとは思いますが、楽団のメンバー構成という前提知識の無い方に向かって例えば「Harry Carneyの音が凄くて」といった表現をしても、素晴らしさが何も伝わらないどころか逆に引かれてしまうだろうな、と確信しています。
なので、まずはどうにかして音を聴いてもらうように務めるのです。
まとめ
- せっかく良いものを作ったり見つけたりしても、それに触れてもらえなかったら残念
- 実際の敷居が高くなかったとしても、あたかも高いものであるかのように勘違いされるのは残念
自分が何かを作ったり宣伝したりする時は、こうならないように気を付けたいものです。難しいのは百も承知ですがね。